恩師への手紙

先生は私のエンジンに火をつけてくれた大切な人だ。

大学院時代の恩師から連絡があった。
詳細には言えないが、トラブルを抱えているそうだ。
先生の講義を受けての感想、自己発見をA41枚程度で送ってもらいたいとのこと。
「お世話になった先生のためじゃ、自分の振り返りにもなるし、いっちょやったるか!」として昨晩まとめた。

以下にそれを載せる。固有名詞は伏せた。

★★★ここから
○○先生の講義を受けての自己発見

「恩返し」ができれば何をしても大丈夫
 「なぜあなたは誰からも頼まれていないのにここ(大学院)にいるの?」
 ○○先生からはずっとそう問いかけられていた気がする。だから先生の研究室で同級生と話しているときに、ふと「恩返し」という自分のテーマに気づけたのだと思う。自然と涙があふれる体験をした。内から湧き出る安心感、信頼感のようなものに出会えた。「自分は両親や亡くなった祖母に「恩返し」がしたくてここにいるんだ。自分が不登校をしていたときにお世話になった人へ恩返しするために、臨床心理学を学んでいるのだ。だからスクールカウンセラーになりたいと思っていたんだ。なんだ、自分は今までもしっかりと自分で自分の人生を生きてきたじゃないか。多くの人に支えられながらも、自らの人生を切り開いてきたじゃないか。じゃあ自分の思う「恩返し」ができれば何をしても大丈夫じゃん」と気づかせてくれた。

「自己嫌悪」という自分のパターンへの気づき
 私はずっと自分を責めている“フリ”をしていたとも言える。自分で自分を責めているフリをすれば、自分で決断して行動しなくてもよい。「○○が××のことをいじめるのを見た。でもおれは何もできなかった。おれ自身もいやがらせを受けた。でも言い返せなかった。おれはいじめてないのに先生から叱られた。でも何も言えなかった。悔しい。おれが悪いわけじゃないのに。納得いかない。でも何も言えなかった。こんなダメな奴はおれじゃない。本当のおれじゃないから言えなかったんだ。だからおれは悪くない」と開き直ることができる。自分への言い訳ができる。自分を偽ることができる。人のせいにできる。自分の人生を生きないのは楽な面もあるが、そこに実感はない。生き生きとした感情はない。自分自身のもつ個性、魅力が表れない。どことなく息苦しい。そんなパターンに気づけた。

○○先生に出逢わなければ今の自分はない
 ○○先生の講義は毒だ。しかしそこに悪意はない。あるのは信頼感だけだ。厚かましく、押しつけがましい愛がそこにある。その人への信頼感があるからこそ、厳しいことを言える。愛のムチを打ち続けたい人なのだと思う。参加者全員に平等にムチを打つ。その人自身が生きづらさを感じているところに「土足で」踏み込んでいく。進んで「波風」を起こそうとする。しかし、それは「フリ」である。その結果、その人自身が生きやすくなることを心から願っている。自分の思考の癖に気づくことで、自分が「解放」される瞬間に立ち会うことができる。少なくとも私にとってはそうだった。その瞬間がたまらなく好きな人なのだと思う。
 ○○先生がいなければ今の私はいないだろう。先生のしつこい愛のムチがあったから、私は自分の人生のテーマに気づけ、自分の生き方を貫いている自分に気づけた。「誰がなんと言おうとおれはおれの生き方で行く。だからその結果出てきた責任は果たしていく。真摯に向き合い、対応していく。不器用でもいい。お前はお前の生き方をしろ」と。
 先生は私のエンジンに火をつけてくれた大切な人だ。